2015年2月22日日曜日

Whisky Festival 2015 in Kyoto ウイスキーフェスティバル 京都(前編)

「ライブ」がバーショウと一体化して詰まらなくなってからこっち、フェスティバルの方が面白いかなと。で、京都で開催されると言う事で出かけてみようかと。セミナーは二つ事前に予約。土屋氏の「グレングラント3世代一気飲み」と、ニッカ・本田氏の「竹鶴政孝に学ぶ事業成功の秘訣」。

会場の京都平安ホテルには開場30分前の1030に到着。受付待ちの行列が2階から1階まで伸びて、入り口自動ドアを過ぎてました。結構な人気ですな。

定刻少し前から受付が始まったようで、割とスムーズに会場に。取り敢えずクロークにカバンと上着を預けてしまいます。


メイン会場では早速ニッカのブースに。残念ながら有料試飲は無いようです。有料で飲ませるレベルのボトルを持ち込んで欲しかったなあと。レギュラーのラインナップはたいてい飲んでしまってますから。あ、でも飲んでいないのがあった。ブラックニッカの復刻版。えーと、あんまり印象に残ってないけれど不味いとは思わなかったので値段なりの味わいであったかと、多分。

土屋守氏の挨拶でイベント開始。バグパイプの演奏も、定番。入り口付近のブースでは個人的に気に入っているKavalanが。300円でバーボンカスクを飲んでみましたが、飲みやすくコクもあって、このブランドらしい味わい。でもボトルの価格設定はちょっと高くないか? まだ国内での流通量が少ないから仕方ないかなあ。桃園空港に行く機会があったらまた買おう。

1130からセミナーでの試飲があるのでここで調子に乗って飲み過ぎないように。セーブしつつセミナー開場前に移動してしばし待機。準備にそこそこ手間がかかったようで、ドアが開いたのは開始時刻直前でした。最前列の端っこに席を確保。3世代と言いつつティスティンググラスは4つ並んでいます。Five Decades, 1972、 37YO Berry's own Selection, 1967 Single Cask Collection, 1954 G&M Rare Vintage.

何ですかこれはと言うしかない。土屋さんの軽妙なトークでセミナーは始まります。

セミナー3コマ目だと味が分からなくなるから一番美味しいものを最初に持ってきたと。二度と飲めないボトルばっかり。グレングラントは1840年、スペイサイドのローゼスと言う街に創業。ローゼスには5つの蒸留所があった。一番古いグレングラント、グレンロセス、グレンスペイ、スペイバーン、キャパドニック。キャパドニックはグレングラントの第2蒸留所として作られたため性格はグレングラントに似ている。残念ながら今は閉鎖されている。フォーサイスに土地建物は売られてしまい、ウォッシュバックやスチルはあちこちに売却された。2年前に最北のサーソーの街のウルフバーン蒸留所に行ったとき、大きな鋳鉄製のタンクを見た。元々キャパドニックにあったもの。原野から引き込んだ水が冷た過ぎるので、一度タンクに貯めて仕込みにかかる前に少し水温を上げるために使っている。

グレングラントを選んだ理由はもう一つある。ドラマになってる「マッサン」のモデルになった竹鶴政孝氏。氏がロングモーンで一週間の実習をする、その前日の日曜日。隣町のローゼスに行って、日曜日で休日であったが、留守番の職人に幾らか握らせて蒸留所を見せてもらった。そんな蒸留所。

今のグラントは全てノンピート。ポットスチルも他では見られない独特の形をしている。仏舎利塔に似た、ストゥーパと土屋氏が呼ぶ形状。また、8機のスチル全てにピュアリファイア(整流器)をラインアームと冷却機の間に付けている。創業者の息子、2代目のメイジャー・グラントが相続した時に、もっとフレイバーの軽いものを作りたいと言う思いで取り付けた。ノンピートでただでさえ軽いのに更に軽い資質を生んでいるのがグレングラントの特徴。ピュアリファイアは今でも全て生きている。

70年代、60年代、50年代と三世代を飲み較べてみたい。どういう影響が味にあるのか。本当は土屋氏が還暦を迎えた昨年やるべきであったが、忙し過ぎて今になった。54年は土屋氏の生まれ年と言う事もあるので、その辺りの事も踏まえて(因に67年は私、やっその生まれ年)。

最初は5ディケイド。ディケイドは10年の意味。今日選んだ唯一のオフィシャルボトル。60年代、70年代、80年代、90年代、2000年代それぞれの原酒を選んでバッティングしたもの。全世界12,000本限定。日本には120本販売された。60年代はそれほど沢山は使っていないだろう。中心は80年代、90年代。一番若いのは10年くらいか。46%、ノンチル。色的には90年代、2000年代が多いのではないか。充分美味しい。ボトルにはデニス・マルコムのサイン入り。

実はグレングラントは今カンパリ社が所有している。イタリアではグレングラント、それも5年以内の若い物が非常に沢山飲まれている。シングルモルトの70%がグレングラント。以前はシーバスブラザースの中にあった。シーバスにはグレンリベット、ストラスアイラ、ロングモーンまであってグラングラントの立ち位置が曖昧になり、グラントの経営を続ける意味合いが薄い。そのためカンパリに売却された。カンパリはデニス・マルコム氏に経営を委ねた。氏は元々グラントの叩き上げの職人であり、50年ものを仕込んだ当人。

昨年ツアーで行ったときに、50年ものをボトリングしたばかりであった。来月からアサヒが10本だけ日本で50年のボトルを正規に販売する。1本150万円で。これを1963年に樽詰めした張本人がデニス氏。グラントの職人の家に生まれ、16歳で樽職人として勤め始めた。この樽は一番古い熟成庫のダンネージの一番下で長く熟成されていた。同じ1963年のファーストフィルのシェリーバットがもう一つある。これは残してあるが、去年ツアーで行ったときにこの樽から直接飲ませてもらった。あろうことか、一行はフルボトル一本分飲んでしまった。

今日飲む最後の一杯、52年もの、1954はそれより更に10年前に仕込まれた。オフィシャルであったら幾らになった事か。

グレン・グラントの特徴は、スペイサイドの中でも特に軽い、クリーミィ、フレグラント、優しい。5ディケイドはそれがよく出ている。そうは言っても、90年代2000年代が中心なためかやや若い。フィニッシュがドライ。イタリア人にはそれが受けているのかもしれない。

2番目のグラスはBBR(Berry Bros & Rudd)。ロンドンに店を構える老舗、17世紀の後半に誕生した。かつてカティサークのブランドを持っており、それ用の原酒であったと思われる。カティサークを手放してグレン・ロセスのシングルモルトの販売権を得た。1972年に蒸留したカスクストレングス、51.4度。2009年にボトリングした37年もの。色からしてシェリー樽、ホグスヘッドではないか。一般的にグレングラントはこれだけの長期熟成に向いているとは言えない。相当に選ばれた原酒。やや樽が勝ち過ぎているかもしれない。濃厚で甘い香りがする、美味しいがややオーキィ、ウッディ。樽のオークの部分が出過ぎている感がある。この樽なら30年くらいにした方が良かったかもしれない。カティサークが90年代以降BBRとして売れなかった事もあり、本来ならカティサーク用として若いときに使いたかったものがついつい持ち過ぎてしまったのか。5ディケイドに較べると性格が全く違う。良ければ数滴水を加えた方が飲みやすいかもしれない。

いよいよここからが本番。おそらく2度と飲めないであろうもの。3杯目はグレングラント1967シングルカスク。1963には敵わないが。10数年前、今のウイスク・イーと一緒にシリーズを作ったときのもの。最初のシリーズは土屋氏の似顔絵が付いていたが、続けたときにラベルに土屋さんの顔が並ぶのは気持ちが悪いとクレームがついて(笑)、似顔絵は裏に付けるようになった。年に3、4回ボトリングしていたシリーズの#5。2000年のミレニアム記念で60年代のボトルを3本揃えた中の一本。他の2本はグレンリベットとロングモーン1969。圧倒的にロングモーンがすごかった。(このシリーズのボトルではないけれど、後で有料試飲のロングモーン1969を飲んだ。)

今となっては1967なんてあり得ない。バランス、エレガント、優しい、気品のある味わい。実はシリーズのシリアル7は全てキープしている。5,6,7,8を取っておいたが、5,6,8はあちこちで開けて無くなってしまった。全てに渡って7番を残していたが、昨年辺りからこれも開け始めた。残りは10本切った。実は開けていないロングモーンもあるが、いつ開けるか。還暦過ぎて空けるタイミングを失ったんで、次は古稀だろうか。

因にコルク栓だったので、古くなって事前に開けてみたらやっぱり中に落ちてしまった。なので、一度茶こしで漉して元のボトルに戻している。

しかしこのボトルは素晴らしい。使い古しのセカンドフィルくらいのホグスヘッドだと思われる。樽番号2399。後で54と飲み較べると分かるけれど、この60年代のグラントのすごさは他に無い。ボトリングしてから16年も経っているけれど、非常にクリーミィで甘くてエレガント。素晴らしい32年の熟成を経ている。先ほどのBBRより5年若いけれど。グラントは長熟でも30年くらいかなと思ったけれど、ホグスヘッドは30年がピーク、そのバランスの良いときにボトリングした奇跡のグラント。

次に飲む本当に選りすぐったスパニッシュオークのファーストフィルのシェリーバットはその限りではない。今日の真打ち、50年代のグレングラント。土屋氏の生まれ年のボトルで、思わず衝動買いで3本買ってしまった。追々開ける。

G&Mのレア・ビンテージシリーズ。G&Mの熟成庫を見た事があるが、宝のような熟成庫。ラック式の一番下、地面に近いところにある樽は40年代50年代のグラント。42、43年辺りからある。彼らが出したのは1948から。20年間全てのビンテージをボトリングした。

このボトルは1954年4月24日に蒸留された原酒。デニスはまだグラントに入っていない。ボトリングは2006年の1月13日、52年もの。150万円の50年ものより古い。

樽番号1818、ファーストフィルのシェリーバット、ただし40%に加水している。すごいとしか言えない。G&Mが当時長期熟成用に買った樽。彼らはワインも扱っており、自分たちで持っていたシェリー樽やワイン樽を長期熟成用に蒸留所に持って行って詰めてもらい、しばらくは蒸留所に置いていた。おそらく70年代に自分たちのエルギンの熟成庫に引き取って、更に30年近く熟成した。加水している分飲みやすい。フルーティ、熟した果実、ドライフルーツ、絶妙なバランスが醸し出されている。

50年代はどこの蒸留所もそうだけれど、今とはかなり作りが違う。当時はゴールデンプロミス(大麦の品種)が出来ていない。1960年代の終頃に誕生してスコッチウイスキーはがらっと変わった。当時の大麦はおそらくイングランドから持ってきていた、今は存在しない品種。アルコールの収量は低い。当時はどこの蒸留所もフロアモルティングしていたが、既にピートではなく無煙炭で焚いて麦芽の乾燥をしていたのでスモーキィフレーバーは抑えられている。また、当時は酵母が違う。蒸留酒酵母が出来ていないので、ビール工場からエール酵母を分けてもらって使っていて、よりクリーミィなテクスチャーを持っている。アメリカンホワイトオークのバーボン樽はまだ使っていない。最初に使ったのはグレンモレンジィ、50年代の終り。60年代の後半くらいからどこの蒸留所も使うようになって、今やスコッチが使っている樽の95%はアメリカンホワイトオークのバーボンカスク。

この時代、G&Mは自前でフランスやスペインからワインやシェリーを輸入しており、その空き樽に蒸留所で詰めてもらっていた。故にオフィシャルにはない味わい。グレングラントが経営の芳しくなかった時代で、自前の樽ではなくブレンダーの樽に詰める事が多く、ブレンダーはせいぜい5、6年で使う事が多かった。長期熟成を狙ったボトラーズで無いとこれだけの品質を保てない。

G&Mは70年ものを出した事がある。モートラックやグレンリベット。見せてもらったがすごい樽で、モートラックはアメリカンシェリーバットの特注の樽。そんなことをやれるのは当時はG&Mくらいであった。

枯淡の域の味わい。67のグラントと較べても面白い。こちらはホグスヘッドの使い古しのヨーロピアンオークを組み換えている。そのため67の方がより甘い。今更BBRや5ディケイドに戻っても仕方ないが、飲み残しているなら飲み切って帰って欲しい。


Q&A。
Q:熟成庫の場所による違いはあるのか?
A:ある。蒸留所の熟成庫が良いとは限らない。特徴的な、例えばアイラの様な潮気のあるような場所とボトラーズが本土に持って行ったものは異なる。ボトラーズでも大手は自分のところに熟成庫を持っているが、たいていグラスゴーに集まっていて貸倉庫の様な集中熟成庫で寝かせる。物によってはオフィシャルの方がフレッシュでピーティ。

G&Mがグレングラントのオフィシャルラベルを使えるのは、G&Mがオリジナルで、オフィシャルは元々詰めていなかったため。G&Mは特別。20-30年くらいは蒸留所の石造りのダンネージに置かせてもらい、その後はボトリングの頃合いを手元で管理出来るようエルギンに引き取る。このボトルはモニターを重ねているうちに予想を越えて長く熟成出来る事が分かってここに至ったと思われる。

小さいボトラーズはやはり蒸留所に置かせてもらうか、グラスゴーの集中熟成庫に置くため味が微妙に変わる。

Q:(私)コルクキャップとプラキャップに違いはあるか?
A:プラキャップでも全く問題ない。そうは言ってもお高いボトルにプラキャップは安いイメージがある。こだわりを持ってこう言うコルクキャップにしたがる。このタイプ(木+コルク)のキャップは1913年にティーチャーズが開発した。プラのスクリューキャップは1926年ころホワイトホースが特許を取った。

話は違うが、ドラマ「マッサン」のウイスキーの考証をしている。マッサンが学生服を着てバーに行ってウイスキーを飲んで感動するシーン。1916年当時、まだこんなキャップはあるはずがない。ワインと同じでコルクを打って+鉛のシール。ワインオープナーがないと開けられない時代。また、当時シングルモルトは全くない。「ハイランドケルト」なんてネーミングは知らない。第一話、最終話に登場する、「スーパーエリー」が賞をもらうシーンがある。そんなネーミングはない。史実的にはスーパーニッカであるが、1962年当時、ウイスキーのコンペティションはない。フィクションだから目をつぶった。またその時英国大使が余市に行ってスピーチをしている。歴代の英国大使は勉強熱心で、日本赴任が決まると事前に日本語をマスターして来日するので、日本語が喋れる。それで日本語でスピーチ。英語でスピーチしてしまうと主要な主張者が引いてしまう。それ以来、二度と相談されなくなった。フィクションなのでと言うことで。

去年の今ごろが一番大変だった。国会図書館で色々な文献を調べて、お陰でジャパニーズウイスキーについて詳しく知ることが出来た。そういう意味では幸運だった。

良い気分になったところで、外へ出て昼食。近くでうどんをすすって、さて午後からは何を飲もうか。
(別項に続く)

0 件のコメント:

コメントを投稿